颯爽退勤日記

日々の考えごととか、ねことの日常とか

大晦日、ふと結婚しようと思った

12月30日金曜日、明けて31日土曜日。

友達との飲み会から終電で帰ってきて、最寄り駅で幼馴染に偶然会ったので外で喋り、1時すぎに帰宅する。 実家の広いお風呂に入りながらふと、ちゃんと今の彼女と結婚したいな、と思った。

ベッドに入ってからも、なんで結婚したいと思ったのだろう、と自分の感情を言語化するために3時ぐらいまで考えていた。 結局寝てしまって7時ぐらいに起床したが、頭の中はそのことでいっぱいなのが嫌でもわかった。起きてすぐの脳で考えながら、いまこれを書いている(12月31日 8:00)。


まずそもそも、去年に出会い、今年の春から同棲を始めてから半年が経ち、彼女に対して「将来のパートナーで居続けて欲しいな」と思うようにはなっていた。

育ってきた環境、学んできた環境、働いている環境なども大きく違わず、余暇の興味対象も近く、感情的にも理論的にもしっかりと議論ができる2人になっているし、どこと比較してるかわからんが、比較的相性もいいんだと思っている。

ただパートナーになってもらう手段として、結婚という制度自体は認識しているものの、個人的には特別その手段を選択しなければいけない理由が思いつかなかった。

むしろ結婚という手段は、嫌な部分しか目につかない。 正解のない議論をしなければいけない上に結局誰も良い思いをしないと思っている夫婦同姓制度。 プロポーズや結婚式、理由はわからないけど正しくはこういう流れを踏むものです、という模範的解答が暗黙的に存在している文化。

元々結婚なんてものは親が相手を決めて、家同士で血縁関係を結ぶための制度であったはずで、そんな文化はもうなくなり自由恋愛の結果の結婚が現在なのに、やけに形式ばったところなど、旧時代から受け継いでしまっているイマイチな部分がある気がする。本当に今の世の中でそれが最適なやり方なの?と思うことばかり。

なのでわざわざ結婚という手段を踏むのは個人的に億劫だと感じていたし、パートナーとして2人で支え合って生きていけるのであればその気持ちだけで十分だと思っていた。契約っぽいものが必要なら事実婚と呼ばれる形ですればいい。いつか将来子供を作りたいという気持ちになり、もし授かることになれば生まれてくる子供のために入籍すれば良い、そんな価値観を持っていた。

ただ今回帰省して親や祖母と話したり友達と話したりする中で、嫌なところしか見えていなかった結婚というものが、少しずつ変わっていったような気がする。良いものと思えたわけではないが、その選択をする理由や背景がちょっとは理解できるようにはなった。

大きかったのは、頭では理解していたつもりだったが、2人の関係性は2人のものなのに、他人から見たら「結婚している2人」と「結婚していない2人」に超えられない壁が存在していることに改めてちゃんと気付けたことだと思う。


昨日飲んでいたのは海外旅行に数回行くほど仲良い、高校の時の友達グループ。最近も個人個人とか数人では会っていたが、全員揃うことはレアで、今年の年末は全員で会うことができた。 ちなみに久しぶりに全員で会うのができたのは、私(だけではないが…)が久しく年末に帰っていなかったからだった。

そして久しぶりに年末に友達と会って飲むという行動をして、ああ、この年末特有のお互いの人生進捗を探り合って確かめ合うこの感じが得意じゃなかったんだった、と改めて思い出した。

もう7,8年も前だけど昔は集まるのも好きだったのになと思うと、だんだん苦手になってしまったのは私が大学生の途中から、徐々に王道とされるレールから外れていった生活を送るようになったからだなと今では理解できる。

ブログを購読させてもらっている八月さんが先日、それです!という言語化をされていた。この方は本当に言語化が上手い。勝手ながらブロガーとして崇拝している。

同期と集まると、どうしてもお互いの人生における近況報告になりがちで、ある程度の年齢になると仕方がないっちゃないんだけど、それも如何なものだろうかと自己の振る舞いに悩む。なんだか、みんなで人生の模範的コースのどの辺りにいるのかを確認し合う時間のようで、居た堪れなくなる。この数年で、え〜結婚したの?子供産まれたの?おめでとう、をもう何回言ったか分からない。でもそれを言われない人がいて、でもそういう話題がないからと言って「おめでたくない」訳じゃない。私はとりあえず聞かれたら答えないのも不自然だからサラッと答えるようにはしているけれど、どこまで開示して良いものか、どうしたら全員が楽しい時間になるのかを考えあぐねてしまう。 私がそう考えてしまうのは、私が長らく人生の模範的コース上にほとんどいない半生だったからだと思う。真人間じゃないから、分かりやすい幸せとは無縁な状態のほうがデフォルトで、現在はもらい事故のように同居人と暮らしているけれど、基本はひとりで奔放に生きてきてしまった。恋愛もほとんどしてないし、むしろ出来ないに近かった。 恋愛しない、結婚しない、子を持たない幸せがあることは当然分かっていて、わかっているけれど、毎回毎回、誰々に恋人ができた別れたという話を聞き、「八月ちゃんはなんで彼氏作らないの」「彼氏作ればいいのに」「誰か紹介しよっか?」という悪意のない言葉に晒されつづけていると嫌でも自分が卑屈になっていくのがわかるのだ。恋愛をしているみんなの方が正しくて、とくに欲していない私はどこかズレていて、みんなができることを私はできないのだと考えて、人生の模範的コースを自分の中に内面化してしまう。そして卑屈になっている私に、だんだん周りのみんなが気を遣い始めるのがわかって、それでさらに自己嫌悪するのだった。

道の境界 - 高等遊民前夜

こと私の場合は恋愛もそうだが、恋愛だけでなく就職、キャリア的な部分でも卑屈になっていた。

一時期大学を休んでフラフラしていた期間があるし、新卒で入った会社はみんなが大手有名企業に行く中で、私はそれほど知られていない中規模な会社。

恋愛も高校生から20歳前後まで付き合った子以来、フラフラしていた時期はあれど、今の彼女までまともな恋愛をしたことはなかった。

自分の意思でこの選択をしているし、全くもって後悔はないのだけれど、 「これからどうするの?」「どういうキャリアを想像しているの?」「彼女はできた?」「その子と結婚するの?」という進捗確認に対して模範的回答ができないとみんなが気を遣ってくれる、あの感じ。あの感じを味わうと、だんだんと帰りたくなるのだった。

結婚したらおめでとう!も本当にそうだ。結婚してないからと言って決してマイナスではないはずなのに、結婚=プラスという雰囲気がなぜかそうさせる。 そして集団で会えば会うほどその雰囲気は一般化され加速する。

こーいうのに嫌気がさし年末帰って友達・親戚に会うという行為が億劫になっていたのに、でも今年はなぜ帰ってこれたんだろう、友達たちと会う気になったんだろう、と思うと今の彼女の存在が大きいのかもしれない、と気づいた。

昔の自分に嫌気をもたらしたこの雰囲気に迎合したみたいで自分にうんざりしているけど、「自分も少しは結婚してもいいなと思える彼女がいるよ」という少しは模範的な回答ができる自信を持って帰省したんだな、と昨日の飲み会で思った。

そして同時に、「結婚してもいい人が今いる」と「結婚した人がいる」は客観的に見て越えられない壁があるのも感じた。

私は結婚してもいい人がいるというだけでも十分すぎることだと思っていたけど、第三者から見たら2人の関係性は結婚しないと変わらないのだ。結局「いつ結婚するの?」の回答をしなければいけない。

友達との飲み会でもこれなので、親戚の集まりなんてよりこういった雰囲気は強かった。


ふと私の彼女のことを考える。彼女は結婚したいと常々言ってくれている。事実婚のような選択も理解できるけど、家族のためを思うと結婚したいな、と言っていた。

彼女は私より明らかに社交的で友達も多い。いとこが同年代が多かったりもするのか親戚付き合いも私より精力的だ。

年齢も私より1つ上で、社会人になっているのは2年も先輩だ。「こんな会話が飛び交う場面を何回経験してきたんだろう」と想像してぞっとする。

私と出会う前の数年は知らないとしても、私と出会ってから「彼氏できた?おめでとう!でもまだ社会人1年目か、さすがに結婚は考えてないよね」「彼氏からのプロポーズはまだ?」みたいな言葉を友達上司親戚からかけられているのは、うまいこと私に伝えてくれていたので知っている。その気持ちを当事者として認識し切れていなかったことを反省する。

そんな場を繰り返し経験することで、社会的な立場のために、家族のために、結婚をした方が良いと言う考えに至るのは何らおかしくないと思った。

と同時に、結婚という制度に関して良い点が見えない、という私の個人的思いなんか馬鹿馬鹿しいと思えてきた。

他人から最低限パートナーとして見てもらえる、つまり入籍するということは、自分たちがこの社会において気持ちよくパートナーとして過ごすためにも、するべきなのかもなと思った。


決定的だったのは昨日の夜、終電で帰った最寄駅で、産まれてからずっと一緒に育ってきた同じマンションの幼馴染の女の子に偶然会ったこと。

近所の公園で話し込む。何年も話していなかったので、やっぱり近況報告になる。幼馴染はどうやら大学から7年付き合っている彼氏がいるが、まだ結婚はしていないらしい。いわゆるプロポーズ待ちというやつだった。

でも最近仕事について考えだして、転職とかも考えようかと言っていた。そうすると働く場所を変えるかもしれないし、そうなると結婚もすぐには考えれなくなるかなとも言っていた。

彼氏との間で結婚の話はするし、指輪の号数とかも聞かれるけど、楽しい部分の話をするだけで具体的な話題が出てこないとも。

早くプロポーズしてくれたら、それ起点で仕事のことも考えれるのになあ、なんか宙ぶらりんだなあ、と言っていたのが私にそのまま言っているようでグサグサ横槍が刺さっていた気がした。

あんまり彼女以外の女性と真面目に話す機会もなくなってきてたので、これも結果的に良かった。

女性というだけで生まれてしまう結婚に対して思う観点も色々あるのは重々承知しているはずだった。子供を産むなら…キャリアを考えると…といったものは言葉では理解できる。でもいざ当事者の話を真面目に聞くとおい、男!はやくプロポーズしてあげろよ!!としか思えなかった。私ができていないのに。

ああ、「いつ結婚するの?」と聞いてきた立場側の気持ちはこれか、とも少し思えた。

正直私は男性なので、この問題はやっぱり完全に認識しきれない。でも想像することはできて、悪意なき言葉でいらない心配事が勝手に増えるのかと思うと、やっぱりぞっとする。

どうせ結婚したいと思っているなら早く伝えた方が良い、ともこのとき思った気がする。


そうと決まれば早い方がいい。というか後ろ倒す理由がない。明日、1日の夜に彼女が待っている家に帰るのだけれど、帰ったらちゃんと結婚したい気持ちを言葉にしようと思う。

で、なぜプロポーズの時に指輪を渡さなければならないかよく意味が分からないしそもそも男がプロポーズしなければいけないのも意味がわからないアンチプロポーズ兼アンチ婚約指輪宗派だったのだけれど、いざ結婚しようという気持ちを伝える覚悟を決めると、指輪をあげたくなる気持ちが分からんでもなくなってきた。

いや、正直指輪というモノ自体はどうでもいいが、言葉に重みをつけたくなる。「結婚しよう」という言葉を信頼してほしいのだ。「結婚したいと思っているぐらいパートナーだと思っているよ」と普段から言っているからこそ、覚悟を持った言葉だとどうやって相手に認識させることができるのだろう。

気持ちを込めて言えばいいのか?いや言葉だけだと本気度が伝わらないかもしれない、上手くこの気持ちを言葉にできないかもしれない。花を添えて言えばいいのか?いや花だけじゃ足りないか、攻めるためにはリスクを取らなければいけないはず。なら何かしら買うか、という思考になるのだ。なんだそれ。ダサいなあ。

自分の言葉をちゃんと受け止めてほしいからモノに頼るなんて馬鹿げてるし滑稽だけど、それはそれで人間らしくていいかとも思えてきた。あとはまあ指輪を渡す=プロポーズという先人たちが築いてくれた人間様の文化があるので伝わりやすいという点も、言葉の意味を誤解なく伝えるためにはその文化を利用して伝えた方がいいのかもしれない。とこじつけて正当化する。

結婚指輪をつけたら婚約指輪はつけなくなるのは非生産的で理解し難いし、そもそもプロポーズ=指輪の文化にはあまり迎合したくはないので、指輪だけに絞らず、良いと思ったものを買うつもりでいる。


(12月31日 13:00) 買いました。ミキモトのピアス。ミキモトにしたのは、彼女がもらったよ、と家族に報告することも考えて親世代が聞いてもわかるものが良いのかなということと、個人的にギャルソンコラボとかで目にしていて男性にも真珠つけていいんだよ、と展開してたところなどが好感を持てていた。

相手の服飾趣味はそれなりに理解しているつもりだし、普段使いできる感じがとても私的にも好みだし、おそらく向こうも好みだと思う。喜んでくれますように。

これにしました。 画像引用元

補足しておくと、もともと婚約指輪をあげる文化にあんまり好意的じゃないという意見を伝えているし、彼女も特別欲しいと思っていない・こだわりがないというのも聞いています。結婚指輪は2人で普段使いできるものを選ぼうと話しています。この文章を見てくれた方、彼女のほしい指輪をあげろよ!と怒らないでください。

まあそもそも結婚したいと伝えてOKもらえると確定しているわけではないですが。ちゃんと言えよ明日の自分。